未来への伝承
ゴルフクラブ
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ゴルフというスポーツティーショット、ゆるやかなドローを描いて抜けるような青空に吸い込まれていくボール。気の合った仲間と談笑しながら、歩く芝の緑が眩しい。ピンを狙うセカンドショット、コースにしつらえてある仕掛けが巧妙にプレイヤーの心理に働き掛ける。パーオンした者、寄せワン狙いをする者、それぞれに直径108ミリのカップに向けて自分の読みと経験のすべてを注ぎ込む。ゴルフは楽しく、また難しい。
ゴルフほど、奥の深いものもまた少ない。ゴルフをよく知る人は、ゴルフを人生にたとえることがしばしばある。日々の生活においても、状況を予測し、判断して実行することが必要であるが、ゴルフにおいてもフォロー(追い風)、アゲンスト(向かい風)、ダウンヒル、アップヒル、傾斜、距離などを読み、判断し、ショットを行う。すなわち「計測」「判断」「ショット」の3要素すべてが競技の実力にかかわってくる。経験だけでも、理論だけでも上達は困難である。そして、ゴルフはすべて自分の力を頼りにコースと戦う。頼れるのは自分(とキャディ)だけ、同伴競技者に対する援助は求めることも与えることもペナルティの対象となる。そして、生じた結果はすべて自分のしたことの結末として受け入れなければならない。また、本来ゴルフという競技にはプレーの適否を判定する審判はおらず、自己のプレーの適否は自ら判定することをその建前とする。従って、常に自己に対して厳しい姿勢が要求される。
他方、計算どおりにことが運ばないのも人生同様またゴルフの面白いところで、思わぬことで結果オーライになることもある。すなわち、右の3要素以外に「運」というのが微妙に絡んでくるのである。
むろん、スコア競技である以上、結果が物をいうのは当然である。しかしそれ以前にゴルフで必要なのは、その人がエチケットを身につけた礼儀正しいプレイヤーたることである。技量はそれなりであっても、周囲に配慮し、コースを保護し、迅速なプレーを心がける人がいる反面、いくらスコアがよくても、「もうこの人とは二度と回りたくない。」という人も中にはいる。ゴルフほど、人間性が出るスポーツもまたないのである。
またゴルフは、長く続けられるスポーツの一つである。大相撲なら30歳、プロ野球なら40歳というあたりが、引退の大まかな年齢といえるが、これらに比べるとゴルフのツアープロは選手寿命が驚くほど長い。そのうえ、シニアツアーが通常のツアーと同様に市民権を得ているほか、アマチュアの世界でも、80歳を超えても元気にラウンドをこなされる方もおり、たまに「エイジシュート」(自分の年齢以下のスコアでラウンドすること)達成が話題になったりもする。もちろん、年齢が高くなるにつれ肉体の衰えとともに飛距離が落ちることはやむをえないが、「飛ぶ」道具の進歩により、かつてほどの飛距離の差は出ない(因みに、シニアツアープロの飛距離と一般ツアープロの飛距離は、ほとんど変わらないという)。また、ゴルフは、老若男女の別を問わず、技量に差があっても同伴競技が可能である。すなわち、ハンディキャップ制度により技量差があっても競技が成立するし、レディス、シニア用のティーグランドにより、競技条件を対等にすることができるからである。
また、ゴルフは道具を用いて行うスポーツである。すなわち、ショットとは人間の筋力をゴルフクラブを通じてボールに入力することにほかならず、その点でマン・マシン一体のスポーツであるといえる。そして、人間の体というのは時代を通じてそんなに変わらないのに対し、ゴルフクラブをはじめとする道具は、わずか200年ほど前にはトネリコのシャフトにりんごのヘッドのクラブを使用していたのが、今やチタニウム合金の中空ヘッドにカーボンファイバーのシャフトに取って代わられている。それは、「より遠くへ飛ばす」というゴルファーの生来的欲求に裏打ちされた用具開発の結果である。すなわち、体は取り替えることができないが、道具は新しいものに取り替えることができる。その意味では、ゴルフの歴史は、用具開発の歴史といっても過言ではない。
そして日本においても、ゴルフはかつて一部の富裕層のみの娯楽であったが、今や誰でも親しめる一般的なスポーツとなっているが、これには後章でに述べるような我が国、特に播磨地方での国産クラブ製作の飛躍的発展が貢献しているのである。
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ゴルフクラブの歴史ゴルフというスポーツが何時ごろどこで始まったのかは諸説あり、確定的なものはないが、1457年のスコットランドの国会議事録において「Fute−ball and Golfe」(フットボールとゴルフ)禁止令が記録されており、これが始めてゴルフというスポーツが存在することを記録した最初のものといわれている。したがって、15世紀の中頃には既に競技として確立していたことが推定される。
ゴルフクラブのメーカーとしてはエジンバラのウイリアム・メインという人物が1603年に王室免許製作人として認定されたのが記録上最も古い。そして、現存する最古のクラブはスコットランドのトゥルーン・ゴルフ・クラブ内に保存されている6本のウッドと2本のアイアンからなるセットで、これは1700年前後に製作されたものと推定されている。
ゴルフクラブは、当初は一本のムクの木からの削り出しであったようであるが、折れると修復が難しい為、ヘッド部分とシャフト部分を接合するという方法が一般的となった。そして、20世紀に至るまでのウッドヘッドはヒールとトゥの間が長く、上から見ると三日月の形をしており、通称「ロングノーズヘッド」と言われた。このクラブのヘッド部にはりんご、ナシ、モモ、バラなどの木が使用され、シャフトにはアッシュ(トネリコ)が多用されていた。これに使用するボールは「フェザリーボール」という、皮を縫いあわせ、一辺の隙間から山高帽一杯の羽毛を詰め込んだものであった。
ところが、1845年になって、スコットランドのパターソンという人物が、ゴムによく似た樹脂を使用して、「ガッタパーチャボール」という新しいボールを開発する。これは、フェザリーボールよりも25%も余分に飛ぶことに加え、堅牢であり、水に強く、量産が可能でありフェザリーボールのわずか10分の1程度の低価格であったこと、修復が可能であったことなどから、ゴルフを庶民の間に急速に浸透させる原動力となった。なお、このボールは当初表面がすべすべしたものであったが、あるプレイヤーがゲームの最初より終わりに近づくほどよく飛ぶということを発見する。すなわち、表面が傷ついてギザギザが多い方が、空気抵抗を受けて結局飛距離が増大するということが発見されたのである。それから、ボールには溝や模様などが入れられるようになり、これが現在のディンプルにつながっていくことになる。
このように、安価で、性能のいいガッタパーチャボールにも泣き所があった。それは、この樹脂は温度に反応し、冷たくなればものすごく硬くなる性質であった為、寒冷地のスコットランドでは、しばしばロングノーズのウッドクラブを破損させてしまうのである。そのため、この硬いボールが金属製クラブの必要を生み、また、19世紀の後半からは製鉄技術の確立により、純度の高い錬鉄を生産できるようになったイギリスにおいては、金属製クラブとしてアイアンクラブが生み出されていくこととなるのである。そして、硬いガッタパーチャボールの衝撃からヘッドを守る為に、ウッドクラブのノーズもだんだん短くなり、現在のウッドヘッドの形に近づいていく。また、材質もより強靭で軽いものが志向され、ヘッドにパーシモンが、シャフトにヒッコリーが使用されていく。
このように、ガッタパーチャボールはゴルフクラブの工法や形状に多大な影響を与えたのであるが、その後アメリカにゴルフが伝えられてから、同国のコバン・ハスケルという医師が、1902年に硬いゴムの芯に細いゴムの糸を巻いて球状にし、ガッタパーチャボールの薄い表皮で覆うといういわゆる「ハスケルボール」を開発する。そしてその後、この糸巻きボールに加え、樹脂を芯にして表皮で覆ういわゆる「ツーピースボール」が開発され、現在はその2種類が主流となっている。
これに対応するかのように、クラブの方も変革が起き、1910年代後半に開発されたスチールシャフトは同29年に公認され、その後、60年代にカーボンシャフトが登場するまでは、その天下が続く。また、ウッドヘッドも80年代以降、メタル・カーボンヘッドが台頭するまでは、パーシモンヘッドがその天下を保つこととなるのである。
外国人によって日本にゴルフが移入する前に、既に外国において何人かの日本人がゴルフを楽しんでいた。そして最初にゴルフをした日本人は、元海軍中将の水谷叔彦氏が
1896年にイギリスのブラックヒースというコースでプレーをしたのが始まりといわれている。その
5年後の1901年、神戸に住む英国人の茶商アーサー・グルームが六甲山上に4ホールのコースを誕生させた。そのコースは1903(明治36)年に9ホールに拡張され、正式に「神戸ゴルフ倶楽部」が発足する。この倶楽部の会員は131名であったが、そのうち7名の日本人が含まれていた。そして、その後武庫郡魚崎町横尾において「横尾ゴルフ・アソシエーション」が、関東では「ニッポンレースクラブゴルフアソシエーション」が、九州では県営で「雲仙ゴルフ・コース」が、西宮で「鳴尾ゴルフアソシエーション」が、それぞれオープンし、日本のゴルフは幼い足取りで歩きはじめる。しかしながら、これらのゴルフ場は、外国人の運営によるか、外国人のために運営されているかという状態であり、日本人によるゴルフ倶楽部は大正時代の「東京ゴルフ倶楽部」からのことになる。 その後も大正期から昭和初期にかけて「武蔵野」「茨木」「京都」「宝塚」「川奈」「名古屋」「福岡」「函館」など全国各地にゴルフ場はオープンしていき、1932(昭和7)年(なお以降西暦表記略)には兵庫県三木市にアリソンバンカーで有名なアリソン氏の設計する「広野ゴルフ倶楽部」が開場する。
そして、広野ゴルフクラブ創設の発起人の一人に、三木金物工業試験場所長である竹田竜太郎氏がおり、同氏が高価な外国製のクラブではなく、日本人の手によるクラブを提供できないかということから、昭和3年ころから試験場の鍛造技術を利用し、グリーンのカップ切りなどとともにアイアンヘッドの試作研究を始める。そして、その研究員の一人として、松岡文治氏がいた。そして、昭和5年には松岡氏は試験場を退職し、旧知で刀鍛冶技術を持つ森田清太郎氏に話を持ち掛け、神崎郡市川町の森田の工場で当時日本においては資料が皆無の状態であることから、開発には関西の福井覚治、柏木健一、宮本留吉などのプロの助言をもとに試行錯誤を繰り返したといわれる。そして、昭和5年末、森田氏が美津濃を訪れ、氏の製品を担当者に売り込んだ。舶来品に負けない出来栄えに、担当者はすぐに買い入れを決めて、ヒッコリーシャフトを付けた国産第1号のゴルフクラブが完成したのである。そして、昭和11年には、大宮にあった島田製作所が初めて国産スチールシャフトの製作に成功し、ここで初めて純国産クラブが誕生するに至る。
前述の松岡氏、森田氏は工場を姫時市内に移し、松岡氏が「日本ゴルフ」を、森田氏が「森田ゴルフ」をそれぞれ興し、企業として本格的にアイアンヘッドの生産に乗り出す。その後、昭和10年ころから13年ころまでは順調に増産を続けていたが、第二次世界大戦に突入してからは、ゴルフ場も食料増産の場所となり、業界も営業を停止して、それぞれに転業していった。姫路の森田ゴルフは、鍛造技術を生かして、軍刀造りをすることとなる。
そして戦後、日本にやってきた進駐軍は、武器弾薬だけではなく、娯楽も持ち込んできた。その一つに、ゴルフがあった。そして、昭和24年ころからは、進駐軍の持ち込んだクラブの修理等をきっかけにゴルフ産業の復興が図られ、昭和25年には国産クラブは復活した。朝鮮戦争による特需景気のために、ゴルファーも増加し、それに伴いクラブの需要も高まってゆく。
しかしながら、姫路のアイアンヘッド造りは鍛冶工がルーツであり、家内工業的な要素が多分に残っていた。熟練工が一日掛かりで加工をして、5個程度の生産であるから、急激な需要増に対応できない。その中で、昭和20年代後半には、太陽ゴルフ機器製造(株)」や「第一ゴルフ(株)」等が創設され、それ以降姫路市内及び近郊において、それぞれ製造に従事していた職人が独立するという形で生産拠点を増やしていく。昭和35年には企業数は15社程度に上り、姫路商工会議所内に姫路ゴルフ器具製造同業組合が発足する。昭和40年代には企業数は20数社にも上り、機械化合理化も進んで、このころには姫路のアイアンヘッドは全国シェアの75パーセントを占めるまでになり、「姫路物」といえばアイアンヘッドの代名詞にもなるほどの知名度を持つにいたった。
ところが、昭和40年代の中盤にはゴルフにも「科学」が導入されるようになり、クラブの世界にも「低重心」「ワイドスポット」などの理論が流れ込んでくる。そこで、当然のこととして新しい理論に基づくヘッドの開発が求められる。しかしながら、従来姫路の企業は、鍛造技術を用いてヘッドを生産してきたが、このような新理論に基づくクラブは「ロストワックス製法」という鋳造技術によらなければ生産できない。
他方、台湾においては、その時点をさかのぼること約10年前からロストワックス製法の研究がなされており、新理論が出された時点では十分その技術は実用化に達していた。そのため、姫路を始めとする日本のヘッドメーカーは、その時期台湾の盛況ぶりを拱手傍観せざるをえない状態に陥り、同49年頃からはオイルショックの影響もあり、倒産する企業も相次ぐ状態となった。
そして、昭和53年ころからは、日本においても本格的なロストワックスアイアンヘッド生産の時代を迎え、また、50年代後半には新素材がゴルフクラブに導入され、ステンレス性、カーボン性のメタルウッドが誕生し、パーシモンヘッドの時代は終焉を告げる。姫路の企業も、このようなトレンドに乗りながら生産を続けるが、その中で従来どおり主に大手メーカーの下請けを主体にする企業のほか、独自の特許、意匠登録を取得し直接販売を企画する企業など次第に特色が出てくるようになった。
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21世紀に向けてそして現在、チタニウム合金、ジュラルミン、コンポジットメタルなどの新素材が脚光を浴び、軟鉄鍛造の良さが再び見直されてきているる一方で、ゴルフの理論もますます進化している。そして、長期化する景気の低迷は、どの業界にも厳しい試練を与えており、姫路のゴルフクラブ製造業も例外ではない。姫路GM友好クラブ会長の植田登氏は、「今は守りのとき。ゴルフでいえば長い打ち上げのホールのようなもの。時代の流れに乗ることは大事なことだが、最終的には、誠意を持ち技術がある者が生き残る。他のメーカーもそうでしょうが、「他所よりも良い物を」、「より完璧な物を」という姿勢が試されるときだと思います。」という。
雨でも、強風でも「すべてあるがまま」にプレーすることが要求されるゴルフ。もその意味ではクラブメーカーも、21世紀に向けて、夜明け前の闇の中をあるがままに乗り越えていかなければ行けないのかもしれない。
取材協力(財)日本ゴルフ協会
ゴルフミュージアム(広野ゴルフクラブ内)姫路GM友好クラブ会長 植田登氏((有)さくらゴルフ器具製作所会長)