未来への伝承

明珍火箸

1 「ローテク」

涼しげに風に揺られる明珍火箸。その鈴虫の鳴くような音は、かのスティービー・ワンダーが「近くで聞いていても、遠くで聞こえる不思議な音」と賞賛した音色である。

取材の最初、開口一番に第52代明珍宗理さんは火箸創りを「朝早うから夜遅うまで、仕事場で腰を折り曲げて鉄を打つ、今時珍しい『ローテク』ですわ。」と切り出した。が、明珍火箸の奏でる涼やかな音は、他の器材ではまねのできない周波数の組み合わせと残響音の長さをもち、実は世界的ハイテク企業であるソニーの音質検査に使用されているほどのものなのである。古くから営々と伝わる伝統技術の結晶が、時代の最先端の機器のチェックに使用されていることに、素直な驚きを覚える。

2 時代の流れとの戦い

今や播磨を代表する伝統技術の一つとなった明珍火箸も、かつて二度の大変革の時期を乗り越えてきている。

明珍家のルーツは古く、もともと奈良時代からの甲冑(かっちゅう)師であった。そして、第22代の御先祖が平安時代の終わりころ近衛天皇に鎧(よろい)、轡(くつわ)を献上したところ、天皇から「触れ合う音が明るく、たぐいまれなる珍器である」として明珍の名前を頂いた。そして、江戸時代譜代の酒井家に仕えて前橋から姫路に移り住み、禄を与えられ歴代の藩主に仕えていた。いわゆる藩お抱えの甲冑師である。又、茶道の世界では明珍火箸が現代において一大ブランドといえるが、これは江戸時代に千利休の注文によって茶室用の火箸を作ったことに由来する。しかし、この当時甲冑師にとってみれば火箸作りは本職ではなくいわば「余技」であった。

ところが、時代が進み、明治維新により武士の時代は終わりを告げる。廃刀令によって、従来の武具はすべて不要のものとなり、他方従来与えられていた禄は廃藩置県により召し上げとなった。生活の柱を失ったことにより、全国にいた多くの甲冑師がこの時点で廃業したが、一部は火箸や農具等の生活関連用品の生産に業態を変更していった。そして、明珍家もそれまで「余技」であった火箸作りに本格的に乗り出し、その技術と命脈を保っていく。

しかしながら、太平洋戦争の到来により、商売道具である材料や工具をすべて供出させられ、戦後の物のない時代にかけては、仕事しようにも何もできない状態が続いた。明珍さん曰く、「とにかく打つ道具も材料もない、先代は、居宅4軒、借家12軒売って私らを食わせてくれた」という、大変に苦しい時代であった。そして、手作業による火箸生産は再開され細々と継続されたものの、需要が大幅に増大する商品ではなく、昭和35年にはついに生家まで売却することとなる。

明珍さんがこの仕事に入ったのが、ちょうどその「どん底」の時期であった。

「人手にわたった生家を横目で見ながら、かろうじて残った仕事場に県営住宅から通い、正月の3が日と盆の2日を除く一年360日重い金槌を振るう苦しい日々でした。自分から入った道ですが、基本から叩き込まれた技術があるわけでもなく、先代の作品との比較をして自分の体で一つ一つ覚えていく、そんな毎日が数年間続いたでしょうか。」

この時期、生活用具としての火箸を生産していたが、火箸は元来冬場の商品であることから、冬はそこそこであるが夏は注文がない、という季節商品ならではのジレンマがあった。そのため、冬の稼ぎで一年の糊口をしのぐという状態であった。ただ、明珍火箸の優れた技術を理解し、その存続を望む篤志家もおり、大量に注文をもらうこともあった。

しかし、時代の流れは伝統技術にも容赦なく及ぶ。昭和40年ころからは、家庭用の燃料は、それまでの主流であった木炭から、ガス、石油、さらには電気がとって代わっていった。又、生活の洋風化も進み、火鉢や掘り炬燵といった暖房器具そのものが急速に家庭から姿を消していった。そのため、それとともに生活用具としての火箸の需要も激減し、長年続いた伝統技術も文字どおり「風前の灯火」となった。

夏の注文もない上に、冬の注文も減る、「生活用具としての火箸」としての展望は見込めない、そのようなときに明珍さんが立ち返ったのは千年以上も前に近衛天皇をして「触れ合う音が明るく、たぐいまれなる珍器」といわしめた「明珍の響き」であった。

そして、試行錯誤のうえ4本の火箸をつるし真ん中に振り子をつけるという現在の明珍火箸風鈴が誕生する。

明珍さんは言う。「先祖が甲冑師として鎧や轡を作っていたときも、その鎧でさえ馬上戦、地上戦と兵法の変化によりそれに合ったものに作り変えてきていたはずです。ただその時に新しく生み出された甲冑も、あくまで基本となる製造技術は先祖から受け継がれたものだったのです。私が言うまでもありませんが時代は流れます。時代の流れの中で変わらずに生きて行ける人は幸せですが、普通はそうはいきません。私たちも「鍛えの明珍」として焼き方と打ち加減はあくまで先祖伝来の鍛造法を固守しつつ、その時代に応じたものを生み出さねばならないのです。」

甲冑から火箸へ、火箸から火箸風鈴への変換は、「余技」から「本業」へ、そして生活道具の「付加価値であった音」から「音そのもの」への、時代の流れに翻弄されながらの変換であった。

3 現在への展開

火箸を用いた風鈴と、ほぼ時を同じくして考案したドアチャイムは、口コミで噂が広がり、次第に受注数が増えていく。また、従来から受け継いだ「ツクシ型」、「鼓型」、「ワラビ型」、「瓦釘型」という4種類の火箸の型もバリエーションが増え、約30種類に数を増やした。当初桐の箱を仕入れる資金がなく、紙箱で出荷したことさえあったが、桐箱の注文数も出荷数の伸びに応じて順調に増えていった。

風鈴、ドアチャイムの生産が軌道に乗り始めたころ、明珍さんは一人の人と出会う。姫路出身の落語家、人間国宝・桂米朝師匠である。とあるテレビ番組で、日本のナンバーワンという企画があり、姫路ゆかりの明珍火箸が取り上げられたのである。そして、その米朝師匠のテレビ番組が縁となり、デパートの伝統工芸の展示販売に乗り出すこととなる。昭和62年ころからは先代と代わって自ら出演するようになった。彼にとり職人として住み慣れた仕事場を出ることは、大海に出るに等しい不安なことであったが、同時にそれは人に支えられ手仕事を続けられることを再確認出来るのみならず、明珍火箸の「理解者」が着実に増えていることを肌で感じることの出来る、またとない機会となった。そして、それまで職人気質そのままで人と会うことが苦手だったのが、次第に人と出会えることが楽しみに変わっていった。

さらに、明珍さんは昭和61年、62年と日米友好親善協会によりロサンゼルスで開催されたジャパンエクスポに参加し、海外でも好評を博した。

このように偶然をきっかけにした外への展開が、明珍さんが自ら無いものと思っていた「営業能力」を引き出していったのである。

そして、社団法人姫路青年会議所との関係でも、平成3年(田中康博理事長)に開催された全国城下町シンポジウム姫路大会において明珍火箸を使用した創作楽器「明潤琴」の演奏が披露され、参加者の好評を博したことは記憶に新しい。

4 究極の鉄、それは「玉鋼」

事業が右肩上がりのときに、手をこまねいている経営者は二流である。生活が安定したとき、その技術に安住するのは匠(たくみ)ではない。明珍火箸風鈴が愛好家たちに受け入れられ、営業も軌道に乗ってきたとき、明珍さんの中では再び職人としての気質が頭をもたげはじめた。「いいものを作りたい」この信念が、今度は技術に裏打ちされて「材料」へと向かった。

明珍さんは、古い農具を集めはじめた。それは、古い鉄に着目したからである。現在われわれの身の回りにある鉄のほとんどは、西洋の量産技術を使用して鉄鉱石から作成されたものである。これに対し、日本の古来からある鉄は、砂鉄を使用しすべて手作業で3昼夜木炭を燃やす、「たたら」と呼ばれる製鉄法で作成される。鉄鉱石から作成される洋鉄は、リン、硫黄、銅、チタンなどの不純物の含有率が比較的高いのに対して、砂鉄から生成される和鉄は不純物が少なくさびに強いなどの特徴がある。その和鉄の中でも最上のものは「玉鋼」と呼ばれ、日本刀などに使用される。また、コストがかかるため、和鉄は洋鉄の数十倍以上もの値段で刀匠に引き取られる。

明珍さんは、出来れば自分の作品に玉鋼を使用したいと考えていたが、手に入れるすべも無いためにまず古い農具に使用された和鉄を使って火箸を打ってみたいと考えたのである。

ところで、日本には一個所、「たたら」による製鉄をしているところがある。島根県にある「日刀保たたら」がそうであり、これは財団法人日本美術刀剣保存協会が昭和52年に国庫補助事業として和鉄製法を復元したものである。ここで生産される玉鋼は、無形重要文化財である日本刀技術を保護する目的で、全国約250人の刀匠に配られている。そして、この事を知った明珍さんは文化庁に対する申請手続きを経て、晴れて明珍火箸の製作にこの玉鋼を使用することの許諾を得たのである。

玉鋼を使用した火箸風鈴、これが現在の明珍火箸の究極の逸品である。

5 未来に向けて

現在は、弟さんとともに日夜フルに働いても生産が追いつかないほどの知名度を持つにいたった明珍火箸。余人をもって代えられない手作業ゆえに注文数をこなすのには作業時間を延ばすしかなく、また作業が腰を折り曲げしゃがんだ姿勢のため腰痛は職業病であり、夏には作業所内が50度近くにもなるため一夏で10キロも体重を落とし、秋には体調を崩すという。

奥さんは身を案じて「お父さんは、千羽鶴の羽根を一枚々々落としながら、体を削って仕事をしとってですねん。」と言う。

材料不足と後継者不足は、伝統技術の世界につき物の悩みだそうであるが、明珍さんには3人の息子がいる。そして、長男と三男が火箸製作の後継を希望しており、次男も前述の「たたら」にて和鉄作りに従事している。伝統技術の職人としては、後継者の出現は何よりであろうが、明珍さんは「私がいみじくも体験してきたように、生活の保障はありませんから、親としては、息子にやれとはいえません。」という。

時間的な余裕がもしあれば、現在着手している花器などの創作活動に力を入れ、結果的に収集品になった古代の農具、刃物類の整理をしたい、そして何よりも長年労苦を共にした妻と過ごす時間を増やしたいとのことである。

明珍さんは言う。「自分に過ぎたるものは「我が女房」と「この右腕」、今は職人としての生活を謳歌しています。」さらに続けて言う。「今から20年ほど前に、ある知人から心に残るいい言葉を頂きました。それは「すべて必然」という言葉です。人と出会うのも出会うべくして出会うんだ、火箸風鈴もあなたの手により生まれるべくして生まれたんだ、と。私も職人として生まれるべくして生まれたのであれば、喜んでこの右腕で鉄を打ち続け、それで人々の魂を打ちたいのです。」