未来への伝承

日本酒造り

酒あれこれ

晴れて祝杯、悔し涙の苦杯、弔いの献杯、契りの杯、贐(はなむけ)の杯…。人の営みのあらゆる部分で登場する「酒」。嗜めば百薬の長となり、過ぎれば肝心を病む、そして時にはそれが人々の潤滑油になり、また時には諍いの種にもなる。この液体、よく考えてみると不思議な存在である。

また、酒には顕著に産地の個性が表れる。すなわち、まず大きく分類すると、たとえばイギリスにはスコッチウイスキーがあり、フランスにはワイン、ロシアにはウォトカ、日本には日本酒があるように、その国にはその顔となるべき酒がある。そして、さらにスコッチウイスキーでもハイランド、アイラ、スペイサイド等、ワインでもボルドー、ブルゴーニュ、シャンパーニュ等、日本酒でも灘、伏見、越後等のように、その土地土地においてその個性を反映した酒が造られている。そして、それらの酒の殆どすべては、その土地土地の個性を反映した食材との間で最善の相性を持つ。

そして、当会議所のある姫路においてもやはり土地の日本酒が生産されており、昨今では各醸造元の生み出す「播磨の酒」が全国新酒鑑評会の金賞受賞をはじめとして全国的に高い評価を受けている。では、各醸造元においては、どのようにしておのおの「播磨の酒」を形作ろうとしているのであろうか。それを見るためには、まず我が国の酒造りがどのような足取りを辿ってきたかを概括することがその手助けとなる。

  1. 日本酒の変遷

黎明期

人間は、いつから酒を飲みだしたのであろうか。自然界において人間以外に酒を飲む動物としては、サルが知られる。すなわち、木の窪みなどに落ちた果実が醗酵して偶々出来た酒(いわゆる「サル酒」)を、彼らは飲むのである。このような形で生まれた酒は、当然人間も相当古くから発見していたはずである。そして、そもそも酒とはこのように自然の中から偶然に発見したものである。しかし、サルとはおよそ比較にならない知能を持つ人間は、それを自分の手で造ろうとする。そして我が国においても、すでに縄文時代には山ブドウのような果実を原料にした酒が造られるようになっていたようである。

甘い果実を醗酵させると酒が出来る。飲んで美味しく、気分がよくなる液体、こんないいものは出来れば年中飲みたい。酒の造り方を知った縄文人はそう思ったはずである。しかし、日本は四季の国であり、山ブドウなどの果実は、一時期しか実をつけない。

そうこうするうちに、縄文後期になって稲作が日本に伝わり、米が人々の主食になる。つまり米が年中保存できるものとして登場したのである。とすれば、この米を使って酒が出来ないだろうか、と考えるのは当然のことであろう。

しかしながら、甘い果実は酒になるが、米はそのままでは甘くない。従って、そのままでは酒の材料にはならない。ところが、米は噛むと甘くなる。そこで、弥生時代には噛んだ米を使って酒を造ることに成功する。いわゆる「口噛みの酒」である。すなわち、唾液中のぺプチドアミラーゼが米の澱粉を糖化させることを経験的に知り、それを酒造りに取り入れたのである。

なお、余談であるが、醸造の「醸」は「かもす」と読み、旧字では「釀」と記すが、このルーツは前述の口で噛んで酒を造ることから来ている。

ただ、弥生人は「口噛みの酒」により年中酒を造ることが出来るようになったものの、仕込みは人の口で噛むことが必須であるため、労力の割には量が限定されてしまう。

ところが、そのうち捨ててありカビの生えた米を食べた人が、偶々甘くなったもの、つまり、コウジカビにより醗酵した米を発見したのである。そのような偶然に加えて、欲求に裏打ちされた工夫を重ねた結果、そのころから米を原料として麹を使った酒造りの原形が誕生するに至る。

その後、豪族の時代には酒は神事と組み合わせて使用されるようになる。すなわち、播磨風土記にも記されているように、酒は神と一体をなすための幻覚剤としての役目、換言すれば祭政一致の政治の道具を果たしたのである。そして、室町時代に入ると米を蒸して麹、水、酵母を混ぜて「酒母」を作るという現代の酒造りの基本が出来ることとなる。

基本的技術の確立

そして、時は流れ江戸時代に入ると、酒造りは社会制度の中に完全に定着する。江戸という人口100万もの大都市が発達し、そのニーズに応える酒造りが要請されることとなったのである。

すなわち、まず大量消費地の需要に応えるためには大量生産の必要がある。そのため、従来酒の仕込には壷が使用されていたものが、この時代になると容量を自由に設定できる杉樽が発明される。そして、大型樽の輸送に対応する為に、樽回船が運行されるようになる。さらに、長期的に品質を安定させるために醗酵を止める「火入れ」の技術が確立される(ちなみに、これは65度に酒を熱して酵母の活動を止め、樽を和紙で密閉して雑菌の侵入を防ぐというものであるが、温度計のない当時では経験による手作業でこれを行っていた。それ自体驚きであるが、さらにこの火入れ殺菌の技術はフランスの細菌学者パスツールの低温殺菌法の確立よりも100年あまり前のことであったのには瞠目する。)

そして、時の江戸幕府は酒を寒造りに限定する。これは、農繁期の夏には農業に専念させ、農閑期には酒造りを奨励するというものであり、この政策により丹波杜氏を始めとする杜氏制度が確立する。

このように、江戸時代には酒造りが産業として社会に定着していき、酒造業者は元禄期には約27000軒を数えるまでになる。そしてそのなかで、数ある産地のうちの灘五郷が顕著に発展する。それは、宮水の発見及び播州米が仕入れやすいという材料面、六甲山麓にある菜種搾り用の水車を冬場は精米用に活用できるという生産面、樽回船の港も近いという出荷面、いずれにも優位に立っていたことによる。しかし、かたや全国ブランドになった灘酒に対し、播磨の酒はこの時期まだ地元で作られた酒が地元で消費されるというプリミティブな状態であった。

時代のうねり

そして明治時代に入り、文明開化の流れから全国規模での博覧会や、全国清酒品評会が開催されるようになる。これにより、酒造業界も品質競争の時代を迎えることとなり、「雄町」等の酒造好適米が開発され、また大蔵省の醸造研究所を始めとする研究機関においては優良酵母の分離、麹菌の研究等が進んだ。また、加工面においても精米機の発明や、低温醗酵技術が確立されるなどにより、酒造りが経験と勘のみの世界から、科学的な面でも発展していくようになる。さらに大正時代になると、精米歩合を高めて低温醗酵させるという現在の吟醸酒造りの原形が出来るようになる。

ところが、昭和の時代に入り戦時色が強まり、物資が不足するようになると、量を確保する必要に迫られ、米に乳酸、ブドウ糖、醸造用アルコール、グルタミン酸ナトリウム等を入れて醸造するいわゆる「三倍増醸法」が開発される。すなわち、従来の品質追求の方向性を、ある意味で時代が許さなかったのである。そして、戦後の食糧不足の時代を通じて業界全体で「質より量」の流れは続き、日本酒の味もその本来の色を失ったまま低迷する。

しかし、高度成長期を経て人々は物質的な満足を得、心の満足を求めはじめるようになる。それに伴い、本来日本酒とはもっと芳醇な旨いものではなかったのか、という気運が高まり、昭和50年代には地酒ブームが到来する。また、日本吟醸酒協会、純粋日本酒協会、日本名門酒会等が情報発信源となり、各地で日本酒の会が開催され、ここに来て漸く各地の酒が個性を主張し、それが全国に流通する時代に入る。

そして平成に入り、大吟醸ブームを迎える頃には消費者も洗練されてきた。すなわち、現在は真にいいものだけが消費者に受け入れられ、そうでないものは淘汰されるという厳しい時代にあることはどの業界においてももはや当然となっているが、これは酒造業界とて例外ではない。江戸時代には2万数千もあった造り酒屋は明治時代には1万5000軒となり、戦前には7000軒、それが現在では1800軒程度となっている。そしてこれから更に淘汰が進み、数年以内には1000軒前後になるのではないかという観測もある。多くの、とりわけ中小醸造元は、今まさしく生き残りを賭けた戦いに直面しているのである。

  1. 播磨の酒造り−21世紀に向けて−

では、安閑とすることが許されない今、播磨の各醸造元においては、どのようにして自らの個性を展開しようとしているのであろうか。なお、紙面の都合上、播磨の造り酒屋のすべてを紹介しきれないので、以下の播磨を代表する醸造元4社の限りでコメントさせて頂くことをあらかじめお断りする。

  1. 株式会社本田商店

大吟醸龍力「米のささやき」。いまでは東京駅の大丸でも手に入る銘酒であるが、これを同社が手がけたのが昭和45年のことである。灘酒が威光を放ち、地酒は粗悪な酒というイメージが支配していたころ、大手の酒に追随しているだけではだめであり、むしろ地酒屋としての存在意義を示そう、大手のできないことをしようと取り組んだのがこの大吟醸造りであった。特級酒1700円の時代に四合2500円の酒など売れるわけがないという声も聞かれたそうであるが、地酒ブームにも乗り、そして、スタート時点が早かったために良質の山田錦を入手することができるという幸運にも恵まれ、順調に消費者に受け入れられることとなった。

本田眞一郎社長は「大吟醸の生産に踏み切った当時は先行きの読めないピンチの状態であったが、困難を肌身に感じて考え、行動することが結果的に転機を生かしていくことにつながったのだと思う。」と振り返る。そして、将来残れる企業としては、自社の存在意義、すなわちうちはこれを造るんだ、という姿勢が必要であり、本田商店としては、徹底的に原材料にこだわる酒造りを目指す、とのことである。

そして、日本酒の将来の方向性としては、より自然志向になり、純米(従来のものは濃厚な味わいが多い)かつ淡麗という矛盾する要素が求められていくのではないかと占う。

取材の最後に「自分の使命は何かということの意識を持つ努力というのが、革新ではないか。」という言葉を頂いたのが印象的であった。

  1. 田中酒造場
  2. 大吟醸「白鷺の城」で知られる田中酒造場は、大吟醸の造り方も、「すべて手作り」を目指す。手作りをするために昔の製法を取り入れ、日本の風土に一番合っているとの信念から木造蔵にこだわる。蔵の二階にはかつて使われていた杉桶などの用具が保存されているが、これは資料ではなく、出番を伺っているものである。そして、酒は生き物であり、目に見えない配慮の一つ一つがよい酒を造るものと考え、かつ酒は人が造るものであり、それぞれが役割に応じたいい仕事をすると結果的によい酒につながることから、杜氏蔵人などの人材を大事にし、和を保つことが当主にとり必要という。田中康博当主は「大吟醸は戦後に生まれた「山田錦」と、ここ20年ほどの精米技術の向上が生んだもの。それが生み出されたために、また昔に習おうとし、またそれができたために地元の意識も向上した。うちは売る方は下手でもあくまで造ることにこだわり、職人に徹する気質で造る方はプロでありたい。」という。

  3. ヤヱガキ酒造株式会社
  4. これに対し、ヤヱガキ酒造はヤヱガキ醸造機械(株)、ヤヱガキ醗酵技研(株)、ヤヱガキジャパン(株)という関連会社からなる企業体であり、清酒メーカーから海外拠点をもち多角化を果たした数少ない総合企業である。もっとも、グループ内部では清酒の売り上げは一割程度にとどまっており、ヤヱガキ醗酵技研の天然色素、バイオ食品関連製品の売り上げのほうががよほど多くなっている。

    そして、同社においてもメーカーであることを重視しているが、その発現形態は上記二つの醸造元とは異なり、技術開発に重点を置くというものである。

    すなわち、メーカーである以上その原動力は技術革新であると考え、そのために研究所を設けて技術系の人材を大学の研究室から採用し、酒をはじめ、バイオ技術、新素材技術の各種開発に売り上げの1割もの研究開発費を投下しているのである。ただ、酒造りの面においては理化学検査をもってしても代えられない「心地」が必要であり、杜氏と蔵人の確保が当面の課題でもある。

    長谷川雄三社長は、これらのグループ企業を大きくすることを考えていない。大きくしすぎると、社員の顔が見えなくなるからである。そして、同社長は会社を大きくしないで企業活動を円滑に行うために、現在OS(アウトソーシング)に取り組んでいる。また、国際化を目指すためにすべての社員に対して海外出張の門戸を開いている。

  5. 灘菊酒造株式会社

これに対し、姫路市内にいくつものアンテナショップをもち、酒と料理のコーディネートを追求するのが灘菊酒造である。冒頭においてその土地の酒は通常その土地の食材と最高の相性を持つとのべたが、それを具現化するのがまさしく同社である。そして、同社の店においては、播磨の食材をふんだんに使った、四季折々の料理と、それに合う四季折々の地酒を提供する。特に、フランス料理とともに吟醸酒を味わえる店「GINJYO」は、ジャパニーズワインとしての日本酒の新しい味わい方を提案してくれる。また、酒蔵そのものを店に改装した「前蔵」は、若い人たちに受け入れられる造り酒屋ならではの新しい居酒屋スタイルを示し、また、酒蔵見学とともにそこで味わうことのできる「酒蔵の膳」では、羽柴秀吉の中国大返しの故事にちなんだ「秀吉の大返しめし」という料理も企画されている。

このように、同社では四季を通じて播磨の海、山、川、里から供された豊かな食材を使い、「酒」と「食」の不可欠の結びつきを考えて調理し、旬の味に出会う喜びをプロデュースしているのである。

このように、各社しのぎを削ってそれぞれに、未来に向けた酒造りを目指している。来るべきメガコンペティション(大競争)時代に向けて、各社がどのように展開し、21世紀にはどのような酒を味わわせてくれるのか、それを考えるだけでも杯が進むような気がする。