時代を超えて(姫路和菓子)
しばらく菓子を眺めていた道臣は、左手で無造作に皿ごと菓子を取り、そえられたくろもじで生菓子を半分に開いた。
「おお、新右衛門―」と呼びかけたまま、道臣は次の言葉を発するのを忘れたように、しげしげと切り口を眺め、これはまちがいなく新右衛門の創作した菓子だと察した。
「新右衛門―」と半分を口に運んだところで、道臣はまた新右衛門の名を呼んだ。味わいがよかったのだ。
「ご家老から抱一さまのお話をうかがい、ひどく感銘いたしましたので、八千代に変わらぬまごころの味わいといたしてございます」
ううむっと道臣は低くうなったまま、まだ言葉を発さず、銘々皿に残された半分の切り口から目を離さない。
黄身の卵餡を花心とみたて、それを紅花で淡く染めた薄紅色の求肥で包んである。求肥は柔らかいので、くろもじで二つに開くと切った口がわずかにほころびて薄紅色の椿の花びらそのものに見える。
「じつに風雅な趣で、抱一さまのお心がよう生かされておる。でかしたぞ、新右衛門。喜代姫様を迎えて八千代に栄えゆく酒井家の祝い菓子にふさわしい。これを長く酒井家御用達菓子とし、ぜひ姫路藩銘菓ともいたそうぞ」
ここでようやく道臣は差し出されたお薄の茶碗に手をかけた。
「幸せ、これに勝るものがありませぬ。金沢丹後大掾さまにもほめられてございます。つきましては厚かましいお願いながら、ご家老さまにこの菓子の名を頂戴しとうございます。」
「玉椿とするがよい。変わることなく麗しき椿の意味なるぞ」
「はっ、かくも素晴らしき名の菓子がつくれまするとは、これまで菓子づくりに打ち込んできた甲斐がございました。菓子の名を汚さぬよう後々まで精進してまいりまする」
伊勢屋新右衛門は感激の体でこう決意のほどを述べた。
(寺林峻「
姫路城凍って寒からず 小説・河合道臣」 東洋経済新報社より引用)姫路を代表する銘菓のひとつである「玉椿」誕生のもようは、右のような形で小説化されて記されている。そして、姫路は和菓子の生産地として、江戸期酒井家のころより頭角を現し現在にいたるまでその技術が伝承されてきている。また、かりんとうなどの油菓子は、「姫路駄菓子」として全国の約60パーセントのシェアを持つに至っている。すなわち、和菓子づくりは江戸期から伝わる姫路の地場産業なのである。ところが、われわれ姫路市民をはじめとする多くの播磨の人々には、案外この事実はあまりよく知られていないのではないだろうか。
もともと「菓子」というのは元々全国にひろく自然発生的に存在していたものである。しかしながら、太古の菓子は木の実、果物などであり、主食に対する補助食的な要素が強く、嗜好品というべき物ではなかったようである。そして、日本に砂糖が持ち込まれたのは意外に遅く、平安時代に伝教大師が薬品として黒砂糖を持ち帰ったのを除くと、慶長年間(1596年〜1615年)に奄美大島でサトウキビが栽培されたのが国産の第一号と言われている。従って、従来の菓子は甘みの少ないものが多く、あるとしてもせいぜい甘葛、飴、蜂蜜などで甘みをつける程度のものであった。
このようなプリミティヴな状態の「菓子」から、現在のような和菓子のスタイルに洗練されていったのは、千利休の時代に始まった茶道文化の普及によるところが大きい。すなわち、豊臣秀吉以降、時の為政者も茶を愛好し、茶道が発展していくとともに茶会が政治外交の場としても使用されるようになる。そして、江戸時代に入り政情が安定した元禄年間ともなると、藩の社交(江戸時代版「官官接待」とでも言えようか。)には茶会が欠かせないものとなっていく。そこで、茶の湯のもてなしには菓子が添えられるが、茶道の発展により菓子もより見栄えのよい、味わいの高いものが求められるようになる。さらに、享保12年には時の第8代将軍吉宗が諸藩にサトウキビ栽培を奨励してからは、砂糖の入手が容易になりそれに付随して製菓技術も向上していく。諸藩はこぞって茶会用の上菓子づくりを競うようになり、さきの小説のくだりでも、伊勢屋新右衛門が江戸での指折りの菓子業者金沢丹後大掾に師事する記載があるように、優秀な菓子職人を育てるべく、江戸、京都などに職人を遣りその育成をするようになる。従って、現在でも姫路のほか北陸、松江等の城下町に優れた和菓子が伝承されているが、これは茶道を嗜む藩主の保護のなごりともいうべきものである。
ところで、姫路の和菓子づくりを語るうえでなくてはならない人材といえば、姫路藩家老河合道臣(河合寸翁)をおいて他にない。すなわち、もし河合道臣がいなかったとすると、現在のようなかたちで姫路和菓子という地場産業が存在していたかどうか疑問なのである。そして、河合道臣と和菓子を結び付けるキーワード、それは実は「借金」である。これは一体どういうことなのであろうか。
江戸時代も元禄、正徳年間となると、政情は安定し、太平になれた世の中はぜいたくになり、幕府の支出は増加の一途を辿った。そのため、第
5代将軍綱吉は従来の純度の高い金貨に銀、銅、錫などの他の金属を混入して貨幣を発行することにより、その流通量を確保しようとした。ところが、価値の低い貨幣の流通量が増えることにより、経済の原則どおりインフレが起こり、物価の上昇を招いた。このインフレにより、諸藩の財政は悪化していったが、姫路藩とてその例外ではなかった。そして、河合道臣が藩主酒井忠道の命により財政改革に乗り出した文化5年(1808年)には、姫路藩の借財は実に73万両(現在の価値にして約440億円)となっていたのである。73
万両を米の石高に直すと、約62万石となるが、当時の姫路藩の石高は15万石、単年度の予算規模は約9万石であったから、大幅な債務超過は明らかであり姫路藩は言ってみれば「倒産状態」であった。そのような状態の中で河合道臣は、数々の財政改革を断行する。それをかいつまんでいうと以下の通りとなる。
まず、領民に対する厚生事業としては、第一にいくたびか倹約令の施行をして、領民が贅沢に陥らぬように戒めた。そのうえで、領民の福利のために「固寧倉」の制度を確立する。これは、各地方に米麦等を保存する蔵を設立し、凶作や不時の災害のときには緊急用の食料とし、平時に困窮する者が出たときにそこから低利で貸し付けをするというものである。また生業資金の貸し付けや、大飢饉のときには藩米の廉売なども行っている。
次に、金融財政に関することとしては「冥加銀講」「御国用積銀制度」という、領民から出資を広く募る方法で低利の金を集め、藩の債務の返済に活用していった。また、姫路市綿町に「御切手会所」を創設し、藩札の発行に努める。
そして、経済に関することの最大の眼目としては、木綿への着眼である。すなわち、もともと姫路が好適産地であり品質の高い木綿を、何とか藩の財政再建の切り札に使いたい、と道臣は考えたのである。従来、姫路領内で産出される木綿は、いったん大坂商人に買い取られ、そこから江戸に売り捌かれていた。従って、そのような形態においては当然大坂商人が中間マージンをとるし、価格の点においても主導権を握られていた。そこで、道臣は、木綿を「玉川さらし」というブランドにて姫路藩の特産品として大々的に江戸に直送することを考え、姫路市綿町に、「国産木綿会所」を開設し、四方奔走の結果ついに江戸における姫路木綿の専売権を得る。木綿の専売制は、それ自体により大幅に藩の財政改善に貢献した。しかしそれのみならず、その後皮革、鉄などを国産品としてその販売に力を入れていったことや、他産業の推進を図り、絹、朝鮮人参、砂糖、染物、陶器、蝋燭などのほか、新田開発をして米、塩などの増産を奨励したことともあいまって、急速に地場産業が発達し、姫路が一種の「流通のハブ機能」を有するようになり、城下に上質の菜種油、小麦粉、白玉粉なども集積するようになった。
そして、茶用の和菓子のみならず、道臣は長崎の出島まで藩士を派遣して、ヨーロッパの油菓子の製造技術の習得を命じた。そして、技術を身につけた職人たちは、船場本徳寺の門前である博労町にて、油菓子を生産しはじめたることとなる。
藩の借金が無かったら、また河合道臣が財政改革に乗り出さなかったら、「玉椿」をはじめとする和菓子、「黒ねじ」「奉天」などの油菓子は、果たして姫路の地場産業となっていたかどうか。何がどう幸いするか分からないものである。翻って現代、日本国内に吹き荒れる不況風の中で莫大な不良債権の処理に有効な施策を見出せないでいる、ときの為政者は、不退転の決意で臨み、民意を尊重して民間活力をフルに利用し、産業振興によって負債を完済するという道臣の姿を、真に見習うべきであると思う。
姫路の和菓子は、茶の湯に使われるような半生菓子系のものと、油で揚げた油菓子系のものとに大別されるのであるが、これがそれぞれのルーツにより姫路に根づいたものであることは前述した。そして、油菓子については、博労町内に数十件もの菓子屋が軒を連ね、町全体がお菓子の匂い漂うような状態であった。ところが、戦災により多くの店が焼失し、かつ手狭になって他所に移転するような店も出てきたために、現在ではわずかに
3件程度の店が残るのみで、界隈に往時の面影はない。なお、姫路の油菓子屋は、「大手」と呼ばれる企業がなく中小の業者が多数あるという他所に見られない特徴がある。取材先のメーカーにその辺の事情を伺うと、やはり、最終的には機械による大量生産品ではなく、手作りの品だからではないか、ということであった。現在業者数は姫路市内に含めて
75社であり、(平成9年版「兵庫県の地場産業 地場産業実態調査報告書」調べ)、生産高は若干減少傾向とのことである。そして、1952年に設立された姫路菓子同業組合を中心に研鑚に努め、4年に1度開かれ、別名「お菓子のオリンピック」と呼ばれる全国菓子大博覧会にも積極的に出展がなされており、好評を博している。本年も4月に盛岡にて同大会が開催されたが、姫路からの出展作品45点のうち、25点となんと半分以上が名誉総裁賞をはじめとする各賞を受賞した。かりんとう、油菓子などは、いわゆる上菓子ではなく、駄菓子の部類に入るものである。すなわち、茶会等の儀礼の場ではなく、庶民が日常的に食するものである。そして、駄菓子も例に漏れず時代の流れに伴い次第に甘みを押さえたものが受け入れられるようになって来ているとのことである。
ところで、「奉天」「黒ねじ」等の油菓子は、いわゆる袋菓子として問屋に卸されるが、取材先のメーカーでは「スーパーマーケットまでであれば対応できるが、コンビニエンスストアの対応はうちでは出来ない。」という興味深い言葉を聞いた。すなわち、スーパーマーケットであれば、チェーン化されていても個々の店毎に少しづつ商品アイテムが異なり、したがって、中小の問屋でも個々の店をターゲットに営業活動をすれば定番商品として置いてもらうことが可能である。これに対して、コンビニエンスストアでは、取扱商品アイテムは全国一律であり、仕入れは一元化されているために、定番商品として置くためには、莫大な量を供給できることが必要であり、到底それは不可能である、というのである。この事は結局、大ロットが供給できない中小のメーカーの品物は、コンビニで買うことが困難であることを意味する。そして今や街にコンビニがあふれ、子供たちはまさしくコンビニ世代と呼ばれてもおかしくはない。
人間の舌は案外保守的である。「おいしい」と思うのは、子供時分を含めて若いときに親しんだ味であったりすることが多い。ところが、子供が買いに行くコンビニで買えるのは、北海道でも沖縄でも買えるマスプロメーカーの大量生産工場で生み出された菓子であり、我がまちで作られる、歴史に裏打ちされた菓子は買えないのである。そうすると、仮にその子供たちが大人になったときに、彼らは果たして姫路固有の油菓子を「食べたい」と思うであろうか。杞憂であるとよいのだが、選択肢の中に上がらないのではなかろうか。
換言すれば、コンビニの台頭による流通革命により、姫路固有の「文化」である油菓子が、子供たちの世代に受け継がれない危険性があるのである。21世紀において「姫路のまちにはこんなお菓子がある。」と次世代が心から誇れるためには、まちづくりを担うべき(社)姫路青年会議所においても、地域固有のこの文化を次世代に受け継いでいくために、近い将来何らかの知恵を絞らないといけないのかもしれない。