逾好日記
酒井家には、重忠以来、石州流の茶道が伝えられていた。
宗雅は、十五歳の頃、すでに茶道に接しており、彼もまた若くして茶道への関心を持っていたようである。
その宗雅を大茶人「一得庵宗雅」にまで育て上げたのは、茶道の師、松江城主松平不昧
(ふまい)であった。
宗雅と不昧との出会いは、おそらく、ともに日光山諸社堂修理に従事した安永八年(1779)五月のことであろう。以来、江戸在府の折には屋敷を往来するなどして交遊を深めるうちに、宗雅は不昧の人柄と茶道精神に魅せられたものと思われる。
天明四年(1784)秋より、宗雅は不昧に師事し茶の湯の伝授を受ける
不昧の指導で茶道への造詣を深めた宗雅は、天明六年(1786)末、江戸大手上屋敷に新たな茶室「逾好庵」を設けた。
これに因んで名付けられた『逾好日記』(1787〜1789寛政元年十月五日より2年7ヵ月、茶会179回)は、天明七年(1787)正月から寛政元年(1789)十月までに催し、あるいは招かれた茶会の記録である。
そこには、客人の顔ぶれにはじまり、道具の取り合わせから懐石料理のメニューにいたるまでがつぶさに記されている。
宗雅は、豪華な蔵品と心尽くしの趣向で、数々の名茶会をもよおした。