姫路城主 酒井忠以(ただざね)

 姫路城主酒井氏は、寛延二年(一七四九)廐橋城(まやはし:前橋)から転封し、明治維新までの約一二〇年間藩を治めた。
 二代目城主酒井忠以(号宗雅:そうが一七五五〜九〇)は、一八歳で姫路一五万石を継ぐが、徳川家譜代大名として、幕閣において将軍の補佐役として枢要な地位にあった。
 藩政においては、他藩と同じく財政の危機的状況にありながら、領民や家臣を慈しんで善政を行った。
 のちに藩財政を立て直した河合寸翁(すんのう)を見いだして登用したのも宗雅であるが、惜しくも三十六歳の若さで没した。


風雅の人酒井宗雅(そうが)

 宗雅は、文芸をこよなく愛する風雅のひとりであり、天性芸術的な才能に恵まれていた。
書画、俳句、和歌、能、鍛刀などにその才能を発揮し、絵画においては実弟で琳派の画人として有名な酒井抱一(ほういつ)に手ほどきをしたとも伝えられるほどの画才を誇った。
 なかでも茶の湯には早くから関心を示し、松江城主松平不昧(ふまい)と師弟の交わりを結んでからは茶道に深く熱中した。
 風雅のひと宗雅に、江戸文化の創造発展を担った、ひとりの芸術家の姿を見ると言っても過言ではない。